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マンガ家インタビュー

4.やなせたかしワールドを支えるもの

ところで、やなせたかしワールドを支えるものとは何なのだろう?
何に影響を受けてきたのだろう?

[インタビュアー:子どもの頃はどんなマンガや雑誌を読まれていた?]

「オレの子どもの頃はね、今みたいにマンガ雑誌はなかった。『少年倶楽部』っていうのがあって、 それに田川水泡が「のらくろ日記」っていうのを描いてて。「のらくろ」とか、 その後の島田啓三「冒険ダン吉」とかね、そういうのには、結構影響受けてると思う。
手塚治虫でもみんなそうです。」

[インタビュアー:子どものことからマンガの投稿をよくしているらしいが。]

「そうですね、中学生の頃から投稿していて、メダルもらったり、賞金もらったりしてました。
マンガ家になったのはみんなそうじゃない?みんな最初は投稿してたり。
だけどぼくは遅い方じゃないかな。普通の人はみんな15~6歳ですね。ぼくもその頃にはやってはいたんだけど、 プロマンガ家にはなれませんでしたよ、とても。」

[インタビュアー:その頃はどんな雑誌に投稿していた?]

「その頃は、新聞とかですね、それから、受験雑誌とってたんで、受験雑誌に投書してた。受験雑誌のね、 数学とかそういうところ全然読まないで[笑]、マンガの方に投稿してですね。 えー、そこじゃすいぶんメダルもらったり、色々もらった。受験雑誌のメダルもらってもしょうがないんだけど[笑]。」

[インタビュアー:では、マンガ雑誌みたいなものには投稿していなかった?]

「マンガ雑誌っていうのは昔なかったんです。 今みたいに『少年ジャンプ』とか『マンガ少年』とかなかったんです。石ノ森とかみんなそういうのの出身だ。 そん中ですごい入選率がよかったんです。でもぼくの頃にはああいう本はなかった。あったらやってたでしょう。」

[インタビュアー:デザイナーとして三越に勤められていた頃にも投書されていた?]

「三越に勤めてた頃はね、今みたいな月刊の時代ではなくて。
「漫画集団」っていうのが一番華やかで。横山隆一とかね、近藤日出造とか清水昆とかね、 杉浦幸雄とか、そういう人たちが華やかーー加藤よしをもそうですがーーー番華やかな時代だったんで。 ぼくらも漫画集団に焦がれて。で、結局漫画集団に入ることになるんですけど。
今と違ってね、雑誌の数が多かったんです。それには必ず漫画ページがあってね、 集団に入ってれば結構食べるくらいには注文があるんですよ。今は全然なくなりました。」

[インタビュアー:今の劇画みたいな時代とは全然違ってた。]

「そうです。ぼくらの頃は、あれは、「漫画」っていう風には言わなかった。ですから、その頃には近いものは、 小松崎茂とか山川惣治とかね、それが絵物語で描いてたんですね。
ところがそこに手塚治虫が出てきてですね。手塚治虫は要するに長編マンガを描き出したんです。 で、あっという間にこれが全国に広まっていってですね。
その頃には少女マンガなんてのはなかったんだ。少女向けのものも全部男性が描いてた。 [女性の作家は]たまーにしかいなかった。長谷川町子とかね、2~3人いましたけど、 ほとんどいませんでした。
ところがですね、少女マンガ家がストーリーマンガを描くようになるんです。その頃は、赤塚不二夫とか、そういう連中が少女マンガも描いてたんですね。赤塚不二夫の少女マンガなんか今では想像できないけど、あるんだよね。
ところがですね、男が描くと、主人公はいつもおんなじ服を着てる[笑]。少女が見てね、これじゃあって……へアースタイルも全部同じなんですね。女からみると、やっぱり外出するときとか、寝る時のネグリジェとかね、色々やりたい。で、少女が描くようになったんですよ。まぁその先達はわたなべまさこさん辺りですけど。
そうするとですね、今度は非常に細かい部分が描いてあるわけ。はじめのころの少女マンガは大体バレエダンサーになりたいてのが多いわけ[笑]。バレエ踊ってるところ、それから、バラの花なんかいっぱい描いたわけだけど。
そうして、少女は少女のマンガを読むようになった。少女マンガ家がいっぱい出てくるんですよ。
外国には少女マンガ家ってのはいないんだよね。あれは日本だけの特殊な存在なんでね。外国から来たマンガ家は少女マンガ家に会いたいってよく言います。いまは、ほんの少しいます。日本のマンガ家の影響を受けてですね、特に台湾だとか東南アジア、それからアメリカにもほんの少しいます。でも、昔は全然いませんでした。あれは日本だけの現象だった。ですから、日本にやってくるのはですね、宝塚をみたい、それから少女マンガ家に会いたいって……非常に珍しい存在だった。現在でも少女マンガ家の数は世界で一番多いと思います。これもだからね、日本だけのユニークな現象なので、あるとき取り上げてほしい。」

[インタビュアー:少女マンガの企画展というのも考えています。]

「[少女マンガの表現は]ホントに特殊な……目の中に光が七つあるとか[笑]……あれは外国でやってる人はだれもいません。はじめはひとつふたつだったのが、どんどん増やして、7つくらい光ってる。目玉だけでね、顔の半分以上あって[笑]。それの起点になったのは中原淳一なんだよ。絵を描く少女はみんな中原淳一が大好きで、その影響は非常に強いですよ。」

[インタビュアー:先生の作品のキーワードとして「叙情」というものがあると思うが[※9]。]

「そうですね。ぼくが、他の人といくらか違う部分は、要するに、詩を書いてるんですよね。ですから、「アンパンマン」も非常に歌の多い番組で。歌が非常に多い。その部分は他の人とちょっと違ってるかもしれない。」

[インタビュアー:詩という「ことば」の部分で「叙情」と言っていると思うのだが、「少女マンガ」の原点になるような「少女画」「叙情画」には影響受けている?]

「あれとはちょっと違うんですよね。
少女マンガをみるとね、あんまし面白くないんだよね[笑]。だから、ああいうのとはちょっと違うみたいですよね。」

[インタビュアー:中原淳一らにも影響は受けていない?]

「中原淳一の絵も好きではあったけどね、そういう絵を描こうとはあんまり思わなかったですね。
中原淳一はあれはね、元々人形から来てるんですね。フランス人形とか。本人もすごい人形作るのが上手でね。その後の叙情的な人もみんな人形作るの上手で[略]。[彼らの描く少女たちも]大体、顔もちょっと人形っぽいんです。血があんまり通ってないっていうか。人形っぽいんですね。
ですから、その部分は、ぼくは違うんですよね。違うんだけど、「叙情性」があるっていうか。つまりいくらか詩的な……中原淳一も詩を書いたし、蕗屋虹児や竹久夢二とかみんな詩を書いてるんですね。加藤まさをとか。その部分は似てるっていうか、そっち側の影響も結構ありますね。」

[インタビュアー:絵の影響を受けた人は?]

現在で言えば、「タンタン」のエルジェ。エルジェのね、絵がすごい好きで。エルジェの本はほとんど集めました。エルジェの絵をみるために、ベルギーに[笑]行ったんです。」

[※9] Back
「世紀末の時代の濁流の中にひとすじの叙情の水脈を探し続けた」(やなせたかし『アンパンマンの遺書』岩波書店、1995年、p.288)。


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