マンガ家インタビュー

3.変容するアンパンマン

やなせ先生の代表キャラクターアンパンマンが初めて登場したのは1973年、 『十二の真珠』(PHP出版)という連作童話集の1篇の中であった。現在のアンパンマンと違って、 姿かたちは人間に限りなく近く、髪の毛まであった。
次に、フレーベル館の幼稚園・保育園向け月刊絵本『キンダーブック』に登場したアンパンマンは、いまの形に近い。
その後も、アンパンマンはマイナーチェンジを繰り返し、現在に至っている。
やなせ先生ご自身、アンパンマンは常に未完成のキャラクターであり続ける、とおっしゃっていた。

「つまり完成しないように、何かしら変わっていく。
でもミッキーにしてもね、サザエさんにしてもね、みんなずーっと変わってきてます。
こういうものって、自分が作るんじゃなしに、みてる人が作る。
アトムだってずいぶん変わってますよ。
自然に変わっていくんですね。この後もね、変わっていくんじゃないでしょうか。
中にいるのもね、ドキンちゃんとかばいきんまんも、はじめの顔と完全に変わってます。いつの間にか変わった。

[インタビュアー:別のところで、キャラクターがストーリーを作っていくというはなしもされていた[※7]が、ならば、キャラクターが変わっていくことではなしも変わっていくということはありうる?]

おはなしもね、いくらかは変わるんですけど、おはなしの「原則」はあんまり変わらないですね。
活躍してるキャラクターはですね、何かしらん自然に変わっていく。 本人が変えようとか何かそういう風に思うんじゃなくてね、何かしらん変わるんですね。ずーっとこう並べてみるとね、 だいぶ顔が変わってる、顔も体つきも変わってる。これはまぁ、僕だけではなしに他の人もそうですけれども。
似てるんだけどね、ずーっと比べてみると違ってるんですよ。だから、こういうのってね、 絶えず成長してるっていうか生きてるっていうか……。
そして本人が元気がなくなってくるとね、キャラクターも元気がなくなる。だからずーっとみていくとですね、 マンガ家がどんどん老いてきますとね、そうすると、キャラクターもなんとなくね、老いてしまって、 はじめの活力がないんですね。絵はうまくなってくるんだけどね、なんか知らん…… ホントにキャラクターっていうのはフシギでね、それ自体がもう生きて、そのひとつの人生をたどっていくんですよ。」

絵本であったアンパンマンがアニメ化されたのは、1988年。 その後人気が加速していったのはご承知の通りである。
このアニメ版アンパンマンと原作絵本版アンパンマンの違いを、 その頭が食べられるか食べられないかという点に見出したのは、文化人類学者の出口顕である。 [※8]

「アニメーションでも[頭が]欠けてる部分はあるんだけども、えー、 全部欠けちゃうと気の毒かなって[笑]。
はじめはだからね、完全に、本で見ると、最初の方は顔がなくなるんだけど、 いまは完全になくなるのはやってませんね。

[インタビュアー:子どものとき、 顔のないアンパンマンを初めて見たときは衝撃的だった。]

「うん、子どものとき見た人はーーぼくは描いてる人だからわからなかったんだけどーー 大人になってから聞くとね、すごい強烈なショックを受けたって何人かに聞いたよ。」

[※7] Back
「ぼくの創作のやり方はたったひとつ。キャラクターが頭の中にうかんで動きだした時にはじまる」(やなせたかし『アンパンマンの遺書』岩波書店、1995 年、p.183)。「やり方はアンパンマンとまったくおなじ。キャラクターが動き出せばストーリーは自然にできあがる」(『同』p.p.183- 184)。

[※8] Back
出口は、アニメ版アンパンマンと絵本版アンパンマンの違いを、臓器移植問題の思想的背景を説明する中で指摘する。(出口顕『臓器は「商品」か』講談社、2001年。)
ばいきんまんとの戦いなどによって不具合の出た顔が割と簡単に取り替えられるアニメ版は、「機能を果たさなくなった身体の一部は、機能を果たす新しいもの に取り替えればよいという身体観がそこにはある。そのような身体観はまさに、臓器移植を支える思想そのもの」(『同』p.12)と説明される。これは、レ シピアントの側に立った思想と言える。
一方、新しい顔が、色んな人にすっかり食べられて初めて得られるという設定の(初期)絵本版アンパンマンは、「ドナーが自らの死と引き換えにあるいは死を 賭けてその一部を与え、他者の命を救うのと同様のことを」実践していると言う(『同』p.19)。そして、このことこそが、傷つくことなしには正義は行わ れないという作者の主張であり、アンパンマンのエッセンスだと解釈される。


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