京都国際マンガミュージアムについて

所蔵資料紹介

京都国際マンガミュージアムには開館時20万点以上(事業完成時の2008[平成20]年には30万点以上)の マンガ資料が収蔵される予定ですが、その中には、貴重かつマンガ史上重要な資料も数多くあります。 ここでは、その中の一部をご紹介したいと思います。
本文中の*は、当館収蔵の資料です。

●日本人最初の漫画雑誌『絵新聞日本地』

横浜でイギリス人C.ワーグマンが発行していた『ジャパン・パンチ』*(文久2年?明治20年)の 影響を受けて、神奈(仮名)垣魯文・河鍋暁斎が明治7年に発行した日本人が刊行した最初の漫画雑誌。

流行語となっていた「ポンチ」を誌名に入れ、『ジャパン・パンチ』の極度に簡略化された絵のスタイルや、 漫画のテーマを時局問題から採ることをまねて定期刊行物化しようとした。

しかし、漫画の内容が板垣退助の自由思想や福沢諭吉の開明思想を批判するという保守的な面があったので、
開化ムードの社会ではあまり支持されず、3号ほどで廃刊となった。表紙に「官許」と書かれているところにも、漫画表現における限界があったようだ。

この雑誌がはたした役割は、明治8年の戯画入り雑誌『寄笑(きしょう)新聞』*(橋爪錦造・月岡芳年)の創刊を促し、明治10年の時局風刺雑誌『団団珍聞(まるまるちんぶん)』*、明治12年の京都における『我楽多珍報』*の創刊へとつなげたことである。(清水 勲)

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●日本最初の子ども漫画雑誌『少年パック』

明治38年、北沢楽天主宰『東京パック』*が創刊されて大ヒットし、 明治40年には日本最初の子ども漫画雑誌『少年パック』(少年パック社)が創刊される。

漫画は元来、大人を対象に商品として売り出され発展してきたものである。したがって、明治期においては、子ども漫画のジャンルは未発達の段階であったから、突然このような雑誌が登場したのは意外な感じを受ける。

これは当時の海外の子ども漫画新聞の影響を受けているようだ。 たとえば、イギリスの子ども漫画新聞『PUCK』*などが日本にも入ってくる。実業之日本社社員の柏原伝吉がこれを見て『少年パック』の創刊を思い立ったのである。川端昇太郎(龍子)が主筆として3年ほど関わったようだ。子ども漫画の時代がはじまるのは、岡本一平による「子ども漫画絵物語」が登場する大正中期からである。 本格的な子ども漫画雑誌が次に現れるのは、大正13年創刊の『子供パック』*(東京社)である。 したがって、『少年パック』はかなり早く登場した子ども漫画雑誌なのである。(清水 勲)

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●京都で出た漫画雑誌『ポテン』

漫画史をみると戦争が漫画ブームを呼んできた一面がある。日清戦争は戯画錦絵ブームを起こし、日露戦争期は漫画雑誌創刊ブームをもたらした。明治37年の『時事漫画非美術画報』*(京都)『日ポン地』*、明治38年の『東京パック』、明治39年の『大阪パック』*『上等ポンチ』*、明治40年の『絵葉書世界』*『笑』*『少年パック』*と続く。この明治40年に京都で『ポテン』が創刊される。

『ポテン』はフランス語の「ポタン」(ばか騒ぎ)に由来しているようだ。他の漫画誌と違って縦34センチ、 横19センチという縦長であるが、当時の漫画雑誌の影響を強く受けている。中央見開き頁の大きな一枚絵時局風刺漫画や全頁の色刷などは『東京パック』『大阪パック』の影響を受けている。

また、最後の頁に漫画絵葉書が4点付き、切り取って絵葉書として使えるのは、 宮武外骨の『絵葉書世界』のアイデアを借りている。創刊号以外は未確認である。 (清水 勲)

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●大正の子ども漫画雑誌『子供パック』

『子供パック』は『少年画報』『コドモノクニ』などの雑誌を出していた東京社から大正13年5月に月刊で創刊された。この雑誌は国立国会図書館をはじめ国内の主要施設に所蔵されていない。

大正期の数少ない子ども漫画雑誌の一つで、武井武雄・竹久夢二・麻生豊や日本漫画会のメンバーという執筆陣の豪華さ、内容の質的高さから日本漫画史上でも特筆すべき雑誌である。

漫画の表現法として、吹き出しを使用したコマ漫画が見られる。これは前年から『アサヒグラフ』に連載されだした「正チャンの冒険」*の影響と思われる。ただし、まだ漫画の半分は吹き出しなしの漫画漫文スタイルであった。

また、武井武雄の漫画・イラスト、山田みのるの子ども漫画(「チョキチョキ太郎」など)の力量を知る上でも貴重な資料である。 1巻4号まで確認されている。 (清水 勲)

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●日中戦争期の漫画雑誌『漫画の国』

昭和10年5月から昭和16年1月頃にかけて中根孝之助(日本漫画研究会)によって刊行された『漫画の国』(昭和15年8月の第6巻第81号より『挿絵漫画研究』と改題)は、日中戦争期、太平洋戦争直前期の漫画界を知る貴重な文献である。

この雑誌の主目的は漫画家養成にあったが、漫画界の情報および漫画論・漫画研究も掲載され、資料としての価値を高めている。なかでも海外漫画界、とくにドイツ漫画界のニュースがよく紹介され、漫画雑誌、漫画家が次第にナチスに協力していく状況がレポートされているのは興味深い。主宰した中根孝之助(1900?87)は茨城県出身。市電の運転手時代、市電争議を組合幹部として指導し解雇される。以来、自活のため下宿屋を営み、芸術学院、日本漫画研究会をおこし、漫画や大衆美術の描き手の養成を昭和10年から昭和40年ごろまで行った。

この雑誌のかなりの部分が集められている施設は京都国際マンガミュージアムだけだろう。 (清水 勲)

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